学府について

『型どおりのような毎日』
土屋 智行 言語・メディア・コミュニケーションコース

 私達は、一日の生活に合わせてルーティンを定め、それに従って生活している。起床してから仕事や勉学や遊びをこなし、人とコミュニケーションを取り、食事をし、就寝するまでに、社会の中の様々な慣習や、自分の中の決め事に従い、決まった行動の流れをこなす。私も週に3回は5時前に起床し、ジムで身体を動かす。そして平日は我が子を学校へ送り出し、大学で担当科目の準備や、学務関係の仕事に加え、「定型表現とその拡張用法の言語学的分析と考察」という研究テーマに取り掛かる。週末は少し遅めに起き、コーヒーを飲みながら家の事や仕事をこなしたりする。日常のルーティンは厳密なものにも、いいかげんなものにもできる。分刻みで決めることもできるし、順番を入れ替えることもできる。このような「変幻自在な行動の型」は、人間の驚くべき適応能力の賜物だと、私は思っている。

 この「型」は、コミュニケーションにも現れる。人は家族を最小単位として、様々な規模の社会集団で生活し、コミュニケーションを取っている。私達はそれらのコミュニケーションを通して、それぞれの集団で共有されている無数の表現を学ぶが、その表現は語の単位を超えて、句や節、文のレベルに及ぶと想定される。例えば学校では「分度器」「三角定規」等の語ではなく「先生おはようございます。皆さんおはようございます。」や「皆さんご一緒に、いただきます。」等のまとまった表現を覚えるし、国語の授業でも慣用句やことわざを習う。校歌の歌詞やスローガンもある。このような[まとまりとして記憶され、使用される表現]を「定型表現」と呼ぶ。

 我が子も、土屋家という最小単位の社会の他に、学校や習い事、親戚の集まり等、複数の社会集団を忙しなく出入りし、それぞれの集団内で使われている定型表現を学んでくる。時には、我が子の威勢の良すぎる言葉遣いに啞然とする瞬間もある。一体どこで覚えてきたのか…。なので私は、我が子がお友達と良好な関係を築けるように、土屋家をなるべく丁寧な言葉遣いで満たすよう努め、妻も、職場で身に付けたゴールドランクの応対品質で我が子に接してくれている。

 さて、このように多くのコミュニティで共有・記憶され、使われる定型表現だが、ただ記憶され、使われるだけではない。文脈や状況に応じて、少しずつ拡張(もしくは逸脱)がおこなわれるのだ。たとえば、子供達の間で人気の歌の歌詞はすぐに変えられるし、ネット上でも流行語がネットミーム化し、改変され、再生産されている。我が子も夕食後に宿題をこなしながら、アニメや漫画、教科書等の台詞を言い換えたり混ぜ合わせる遊びをしている。人は表現を定型的に記憶し、遊び、ふとした瞬間に見つかる面白さに、言葉の創造性を見出すのである。

 我が子を布団に連れて行き、寝かしつける時に「学校の標語とかスローガンとかあるよね?それ覚えてる?」と訊くと、我が子は「え〜、『やさしい』とかあったかな〜」と呟きながら少し考えた後、「忘れちゃった」と笑うと、すやすやと寝息を立ててしまった。そうか、忘れたか…。代わりに覚えてきたのが、あの言葉遣いか…。親の期待は華麗に打ち砕かれるものである。しかし、これも我が子の成長の一過程である。我が子を取り囲む言語環境と、言語の記憶と忘却に関わる認知プロセスは、複雑である。

 

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