学府について

言われていないこと(what is unsaid)の世界
大津 隆広 言語・メディア・コミュニケーションコース
言語文化研究院 言語環境学部門

 シェークスピアや英文学を学ぼうと大学に入学した私は、恩師である寡黙な指導教授の授業を通して、人間とことばの関係の本質を探りたいと考え、言語学の中の語用論という分野へ足を踏み入れました。大学院時代、そのことば少ない指導教授からは多くの情報を教えていただきました。その中でも、伝達された発話(当時は発話という語用論の分析の単位など知りませんでした)の意味解釈には一定のプロセスやルールがあるという講義は、語用論の知識が乏しかった私の知的興味を掻き立てるものでした。そのプロセスやルールが何であるのか、人間の認知の仕組みを自分なりに色々と考えながらここまで来たように思います。

 

 語用論の研究対象は、全てとは言いませんが、話し手により発話の意味がどのように構築され、聞き手によりそれがどのように解釈されるかにあります。発話の意味は、「言われていること」(what is said)と「言われていないこと」(what is unsaid)に大きく分かれます。これらは発話の意味の明示性(explicitness)・非明示性(implicitness)と直接的に結びつくわけではなく、「言われていないこと」の中にも明示的な意味が含まれますし、もちろん含意(what is implicated)のような全くの非明示的な意味もあります。人間のコミュニケーションを考えてみれば、「言われていること」よりも「言われていないこと」の方が意味の多くを占めますし、多くの場合、「言われていないこと」を理解する方がより重要であると実感します。発話の意味における「言われていないこと」の世界の方がはるかに興味深いものです。

 

 「言われていないこと」を確定するためにはコンテクストの情報を用いた推論が必要です。人間の伝達行為は特別な意図がなければ通常ミニマルに行なわれます。「食べた?」という簡単な例において、言わないことも含めて、言われていないことがいくつかあります。「あなたは」や、例えば「今日の昼ごはんを」は、コンテクストの情報(誰に対しての発話か、いつ発せられたものか、など)をもとに推論により確定される明示的な意味だと言えます。解釈のための推論は発話のインプット時からオンラインで行なわれますので、さらにコンテクストの情報(話し手と聞き手の関係性など)を用いて、ランチへの誘いや体調への心配など、非明示的な意味であるさまざまな含意の計算が行なわれます。

 

 推論のプロセス(発話解釈にどのような推論を用いればよいか)自体を意味としてコード化している言語表現は手続き的表現(procedural expression)と呼ばれます。その典型的な言語表現である談話標識(discourse marker)やフィラー(filler)などは、近年、語用論研究の重要なトピックとしてしばしば議論されるようになりました。語用論研究の本質はデータ主義にあります。言語現象や言語データに対して、「言われていないこと」にまで心を研ぎ澄ますことで、人間の認知がどのように行なわれているか、少しずつわかるかもしれません。

 

担当科目:言語コミュニケーション学A(認知語用論), 総合演習(言語・メディア・コミュニケーションコース)A